8月平和を考える勉強会・朝鮮半島
■8月例会 第3回 平和勉強会 議事録
詳細を見るには http://www.inbong.com/2011/fi/fi0805/
◇日時: 2011年8月5日(金) PM 6:30~8:30
◇場所: 大商東成生野支部 2F 会議室 於
◇参加者:岡田、高、名倉、玉利、松尾、堀口、矢部、河手、吉田、
児玉、清水、高藤、中西、横山、大熊、熊谷 (敬称略)
◇オブザーバー:熊谷(トナカイクラブ)、長谷川、田中(シンワライフアシスト)
山崎、五藤、辻、高ヘンジャ、秦、足代、高さんの奥さん、中西さんの長男、
松岡(第2回平和勉強会)、松山(第1回平和勉強会)
◇例会担当 岡田 (敬称略)
★FI報告事項
・名倉代表幹事:FIとサムライクラブによる、東日本大震災への義援金に対し
、仙台商工会議所 鎌田会頭 より御礼状が届きました。(礼状を回覧)
・高 :FI 一泊島根県、石見銀山懇親会旅行報告。(石見銀山、松江城堀巡り、
玉造温泉)
★在日の方の目を通して見るあの戦争と日朝の関係、歴史
▼講師 朴 鐘鳴 (パク チョンミン)先生
◎“私も皆さんと同じです。違うことは、植民地の時代に生きた” ことです。
・現在の光州市河南面の農村で生まれた。3年後に出生届けが出されるくらい
田舎で1931年生となっているが、本当は1928年生れの83歳。
○太平洋戦争中
・家族で日本 大阪にやって来た。
・小学生、中学生時代 日本の学校では、当時 “皇国臣民”という
『日本人よりも日本人らしい日本人になりなさい。』(日本が求めている
自己主張しすぎない勤勉な人)という教育を受ける。
・朴先生は、一生懸命勉強に励み、常に成績は上位5番内。
成績が良すぎても朝鮮人だと手厳しくされた。(時代を背負ってモヤモヤ
と重たい中でも必死で勉強した。)
・小学時代は、それでもまだ牧歌的で、激励してくれる先生に認めてもらえた。
しかし中学進学進路相談では、成績上位の学校には朝鮮人(住所がよく変わる、
生活収入不安定などの理由)だということで内申書をかいてもらえず、やむなく
ランクの低い私立中学に入学する。(大きな壁を感じ、忌々しい気持ち
になる。)
・1941年 アメリカと戦線布告、太平洋戦争が始まる。この日を境に学校では
勉強より軍事教練のほうに重点を置かれる。
→先行きが見えずクラスでは、朝鮮人を小馬鹿にしたような雰囲気などがあり
胸が詰まりもどかしく つまらなくなり 学校にいかなくなくなる。ケンカもたびたび
でついにはみんなからも疎外される。父親からは、「今をこらえよ。」 兄からは、
「ばかなことはやめろ!」と言われるが、荒れ放題になる。
・この頃より、街の繁華街でうろつくようになり不良グループと行動を共にする。
どんどん悪い方にいくが、自分でどうすれば分らずそのまま。
○戦争後 1945年8月15日~
・父親は、日本で生きていくための朝鮮人の団体作りに奔走。母親が家計
を支える。
・この時期に父親のもとで青年組織を作ろうとしていた青年に出会う。
この青年は、めちゃくちゃ強くこてんぱんにやられ、そのおかげで心を
入れ替えるきっかけとなり、もう一度一生懸命朝鮮の歴史を勉強し始める。
・必死の勉強で大学に受かる。この頃より、青年運動を手伝うようになり、
そちらの方が楽しくなり大学に行かなくなる。運動ばかりしていた。
・大学卒業後、運動の中で朝鮮語がきちんと話せないのに衝撃を受け、
無理やり父の友人が校長をする小学校の教師になる。子供達から朝鮮語
を教えてもらい習得する。
・その後は、大手前女子短期大学、関西学院大学、近畿大学の講師を務める。
△質疑応答
◎現状では、差別はあるのか?(名倉さん)
→戦争中は、社会の中で差別は、一般化していた。しかし年代が近くなるに
つれて少なくなりまともになってきている。
・戦後は、同和の人達の努力でいち早くに日本は、国際人権規約に調印、
人権思想、国内法としても機能するようになる。
・制度的には確立されているが、これからは、もっと高い法規定を身につけ、
人と人の関わりを大事にすることが、国際平和にも通じる。
・松岡さんより、戦争中の中国人に対する日本人の民族差別が大きかった
こと。 日本は、制度はあるがそれを実際どう使っていくかをもっと考えなけ
ればならないという指摘がありました。
・松山さんより、平和の道筋の中に差別問題があり、差別を論理的に考えること
が大切であること。アイヌ差別や、沖縄、、部落、中国、 被爆 といった差別に
対する認識を日本人の中から確立していくことでほんとうの平和が訪れるように
なるとの意見がありました。
◎最後に名倉代表幹事から、「経済活動は、平和を基盤にして成り立っている
こと。実際に起こった事象は、一つでありそれを色々な人が色々な視点から
考えることが大切であり、こうして一年に一度でもみんなで考える機会になる
ことが意義のあることである。」と締めの言葉となりました。


